モンテッソーリ教育は、20世紀初頭にイタリアの医師・教育者であるマリア・モンテッソーリが提唱した教育法です。
モンテッソーリ教育ってよく耳にするけど、実際、どんなことをする教育法なのか分からないわ。
教具、お仕事、敏感期といった特殊なキーワードが出て来て、少し堅苦しいイメージがありますよね。
本記事では、モンテッソーリ教育の主要な特徴について、わかりやすく説明します。
モンテッソーリ教育法のイメージを分かりやすく解説
モンテッソーリ教育と言えば、世間一般的に見ると
自主性とか教具とかお仕事…
そんなイメージが強いのではないでしょうか?
そして、
とりあえず、教具とか真似してみるか〜。
こんな流れで、『なんとなくモンテッソーリ』をされてる方も多いのではないでしょうか。
実際に、モンテッソーリ教育法の考え方は、一般的な幼児教育に比べると「ん?!」というような異質な部分が多いので、方法から入ってしまった人にとっては、理論的な部分が置き去りになり、モンテッソーリ教育法をイマイチ理解できていない方も多いのではないかと思います。
なんだか良い教育法なんだと思うけど、ところどころ、共感できないんだよなぁと思える部分があったり。
子どもの自主性を重んじる部分は共感できるが、それ以外のところで引っかかるのです。
そこで、今回の記事では、モンテッソーリ教育法がどのようなものを目指そうとしているのか、私が解釈した内容にはなりますが、例え話を用いて分かりやすく解説したいと思います。
モンテッソーリ教育を分かりやすく例えるなら、「動物園の動物と野生の動物の違い」から思い浮かべると分かりやすいです。
動物園で生きる動物は、従来の教育法で育った動物。
野生で生きる動物は、モンテッソーリ教育法で育った動物。
まさに、モンテッソーリ教育法がやろうとしていることは、野生動物のような生き方を導くことなのです。
それってどういうこと?
例えば、チーターについて思い浮かべてみてください。
動物園にいるチーターは、毎日、動かない肉塊を与えられて、それを受動的に食べる生活を送っていますね。
このチーターが、もしある日 突然、野生で生きていくことになったとしましょう。
その時、檻の外での生活に身を置いたチーターは、自ら狩りをして生き抜くことが出来るでしょうか?
最高速度の走りを出すことが出来るでしょうか?
野生で生きるチーターですら狩りで獲物を得るというのは難しい時もありますから、狩りをしたことがないならば、なおさら、上手くいかないでしょう。自力で生きる方法を知らずに生きて来ているので当然です。
だからと言って、草で飢えを凌ぐことはできません。
でも、決して、能力が元から備わっていなかったわけではありません。
必要な時期に必要な環境がなかったため、それが、チーターを自立から遠ざけて、本来の能力を制限してしまったんです。
逆を言えば、その環境さえきちんと与えられていたならば、このチーターは野生のチーターと同じように自ら食料調達できるようになっていたはずで、本来の能力が制限されることはなかったでしょう。
このチーターには、食料を自分で獲るという環境が欠けていました。獲物を追いかけるために走り回れる広い場所もありませんでした。
動かないエサでは、狩りの必要性が生まれず、広い場所がなければ走る力が育たず、走る必要性もありません。
獲物を追いかけるための体の動かし方を学ぶ機会が与えられないので、狩りの力は育たないのです。
もしも、動いてる獲物がいたならどうだったでしょう。走り回るための広い場所があったならどうでしょう?
本能によって、獲物を追いかけたに違いないです。
私たち大人は子どもたちに、この動物園のチーターのような生き方や環境を強いて、本来の能力を制限してしまっています。
あなたは一人では生きられないでしょう?一人で何も出来ないでしょう?
だから、全て大人が準備して身の回りのことをやってあげましょう、と。
あなたは与えられたものを与えられた環境で過ごすだけ、大人に従うだけでいいのよ、と。
結果、大人に依存する人間に変えてしまうのです。
ですが、本来、子どもたちには自分で出来る力(自己教育力)が秘められているのです。
大人が、大人に依存させるような環境を用意し、自立を奪っているだけなのです。
チーターでいう、獲物を見ると追いかけたくなる、走りたくなる本能のようなものが、実は人間にも違う形で内側に秘められており、その欲求を満たすことで人間本来の姿を取り戻せる、というのがモンテッソーリ教育理論の中心だと言えます。
つまり、モンテッソーリ教育とは天才を育てる教育法ではなく、人間が本能で必要としている環境を用意することで、人間本来の持っている力を最大限引き出す教育法と考えるのが自然です。
人間って天才的な能力を秘めている可能性があって、環境によって制限されてるんですね!
これがモンテッソーリ教育の中心イメージです。
モンテッソーリ教育をこれから学ぶ人のために
チーターの話のように、人間にとっても、成長に必要な環境があります。
しかしながら、人間に必要な環境とは一体どんなものでしょうか?
誰がそんなものを見極めるのでしょうか?
チーターの例え話の時に、環境があれば本能が導くというようなお話をしましたね。
この本能というのは、チーターに限らず、地球上のあらゆる生物に生まれた時から備わっている力です。
チーターが、草ではなく肉を食べるという流れも、本能に従っているものであり、このような類の決まりは、チーターだけが持つものではありません。
生物は、生まれた場所の環境に適応して生きていかなければなりません。
その適応を導くのが本能です。
そして、この本能というのは、どの生物においても重要であり、また、強い本能が発揮される時期というのは生存確率に大きくかかわる幼少期に多いものです。
幼少期は、生きていく環境に適応するために非常に大事な時期です。
人間においては、乳幼児期に強い本能が発揮されます。
ここで、敏感期というキーワードが出て来ます。
敏感期とは、生物に備わっているものであり、ある特定の時期にだけ現れるものです。
敏感期についてはこちらの記事でまとめています。
マリア・モンテッソーリ博士は、人間の子どもたちを観察する中から、他の生物に見られるような敏感期という時期が人間にも存在することを発見しました。
この敏感期は、ある特定の時期、ある特定の環境下においてのみ、強い反応を引き起こすのです。
そこで、博士はこの敏感期に注目し、敏感期の強い反応を引き出すための環境を考案しました。
モンテッソーリ教育法をおこなうためには、敏感期のことを知るのはもちろんですが、まず、子どもの発達や特徴を知る必要があります。
モンテッソーリ教育と言えば、教具だし…教具や環境作りを学んだ方がいいのでは…?
ここまで記事を読んでくださった方には、例え話を通じて、なんとなく、この優先順位について理解してもらえるのではないかと思います。
道具や環境を知ることが重要なのではなく、まずは、どんな性質を持つ生き物に対して、その道具や環境が必要なのか?中心となる子どもという生き物の性質を知らなければ何も始まらないのです。
教具というのは、モンテッソーリ教育法の中でもちろん重要な部分ではありますが、それよりも前に、子どもについて詳しく学ぶことが先なのです。
モンテッソーリ教育法で嫌がられる部分は
モンテッソーリ教育で、主に嫌がられる、怖がられる、気持ち悪いと思われる部分について、以下の記事で解説しています。
モンテッソーリ教育に共感できない部分がある人の多くは、ステレオタイプの教育法の考えに感覚が侵食されていることに起因しています。
モンテッソーリ教育法の理論に足を踏み入れていくと、気持ち悪いと思っていた部分は、誤解であったことに気付かされます。
多くの人の誤解と不安が解消されることを願うばかりです。
やはり、子どもの性質について学ぶことがモンテッソーリ教育法への不信感を解く鍵になります。
モンテッソーリ教育をもっと本気で勉強したい人
おわりに
モンテッソーリ教育法を実践するためには、子どもについて学ぶ必要があります。
モンテッソーリ教育を学ぶ際の本選びについても注意点があるので、よければこちらの記事を参考にしてください。